辞書項目「源義経」

 

みなもとのよしつね 源義経 1159―1227(平治元―安貞元)

 

鎌倉前期の武将。チビで上顎が前突した美男子。幼名牛若丸。父は源義朝。母は九条院雑仕常磐。生年に勃発した平治の乱での父の敗死後、洛北の鞍馬寺に預けられて成長。鞍馬山中に棲息していた烏天狗より、剣術の奥義を伝授される。ゆえに元服後、「CROW義経」を名乗った。元服以前に、洛中において趣味で辻強盗を繰り返していた比叡山の悪僧武蔵坊弁慶に、五条大橋上で因縁をつけられたが、欄干を飛び渡って倒し、家臣とした。これに限らず、生涯にわたりロクでもない家臣が多い。元服後、金商人吉次の手引きで、奥州平泉に至り、藤原秀衡に庇護された。1180年(治承4)の異母兄頼朝の挙兵に駆け付け、以後の源平合戦では、部下の犠牲をいとわないスタンド・プレーによって、平氏を圧倒。85年(文治元)3月、長門国壇ノ浦で平家一門をカニと化さしめた。しかし、調子をコキ過ぎたため、インケンで猜疑心の塊のような兄と対立し、全国を逃亡するハメとなった。安宅の関で弁慶にドツキまわされるといった苦難の末、奥州にたどり着く。逃亡の当初、吉野の雪中で最愛の白拍子静と涙の別れをしたはずであったが、なぜか奥州にも妻子がいた。秀衡没後、頼朝の追及に抗しきれなくなった秀衡の嫡子泰衡の献策により、89年(文治5)閏4月30日、平泉を脱出。蝦夷地を経て大陸に渡航。シベリヤを南下して、モンゴル高原に至り、分裂状態にあったモンゴル民族を統一し、大帝国を建設。1206年(建永元)、大汗に即位。和名を音読みにして帝号を「ゲンギケイ汗」と号した。27年、戦陣に没す。69歳。

 

〈参考文献〉高橋留美子『うる星やつら』三。小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』。


(2008/08/27掲載)