【「トホホ」な治天と「してやったり」の将軍】      作:kari

 

   この作品は、某研究者(ハンドル・ネームkari)氏から『日本中世史を楽しむ♪』掲示板に2010年7月6日投稿戴いた作品を作者の許可を戴いて転載するモノである。

 

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   【「トホホ」な治天と「してやったり」の将軍】      作:kari

 

 【意訳】

 後円融院「おう、厳子、里から帰って来たんだって? んじゃ、今夜、寝所に呼べや」

 少将内侍「はい。お待ちください」

 後円融院「久しぶりだからよー、ぐひひっ」

  (間)

 少将内侍「仙洞。お着替えがありませんので、今夜はご遠慮申し上げたいそうです」

 後円融院「あ? 何だ、そりゃ?! 夫にカラダ預けんのが、妻のツトメじゃねーのか! ん? 待てよ、あの噂、ホントじゃねーだろうーな! 義満と厳子がデキてるっつーよ! よーし、確かめてやらあ!!」

 少将内侍「仙洞、おやめください!」

 

 義満「んで、厳子はどうなったのよ?」

 裏松資康「院は、刀で厳子さまを打ち据えたらしいですな。峰で打ったので、一命はとりとめましたが、血が止まらない状態で」

 義満「んー、やばいね。やっぱ、叔母さんに頼まないと駄目かねー」

 裏松資康「そう思いますが」

 義満「つか、院、キレすぎじゃね?」

 裏松資康「はあ・・・(アンタが追い詰めたんでしょ!)」

 義満「出産あがりで女が帰って来たもんで、いきなり『ぐひひっ』とか鼻の下のばして、やることやろうとしたんでしょ。たく、モテねー男はやだよねー」

 裏松資康「はあ・・・(どの口が言うか、どの口が!)」

 義満「んじゃ、叔母さんによろしく頼むわ。あ、それと、お前んトコにいい医者いたよね。楽阿弥っつったっけ。したら、厳子を診てやるように言って」

 裏松資康「わかりました」

 義満「しっかし、厳子の産んだ子って、院と俺のどっちの種なのかねー。ま、成長してから、ツラ見りゃ分かるってか? ぎゃはははは!」

 裏松資康「・・・(やっぱ、そういう人だ。アンタは)」

 

 

 義満「で、叔母さん。院の様子はどうです?」

 准后「まったく、わが子ながら情けない話です」

 義満「まあ、疲れてるんですよ。でも、何で便所に閉じこもるとか・・・」

 准后「いや、それが。・・・『将軍が院を島流しにする』とかって噂が流れたでしょ。それを真に受けちゃって」

 義満「そんな。承久の乱じゃあるまいし・・・。ま、私も何とかなだめてみますんで、叔母さんもよろしくお願いしますよ」

 准后「分かりました。ところで」

 義満「はい」

 准后「按察局のことですが」

 義満「・・・(ウッ!)」

 准后「本当に、何もなかったんでしょうね?」

 義満「え? いやー、そんなー、あるわけないじゃないッすかー!」

 准后「本当に?」

 義満「本当に」

 准后「本当に?」

 義満「本当に(しつけえな、ババア!)。・・・あ、じゃあ俺、『起請文』書きます」

 准后「そう、それならよかった」

 義満「いやあ、ホントですねえ(てか、マジで俺、『起請文』書くの?)」

 

 【解説】

  永徳二年(一三八二)正月、将軍足利義満が左大臣に昇進した。四月には後小松天皇が践祚し、後円融の院政が開始された。ちなみに、義満と後円融院の母親(紀良子と崇賢門院広橋仲子)は姉妹どうしで、彼らは「従兄弟」の関係にある。

  九月、摂政二条良基と義満が後小松天皇の即位大礼の日程を後円融院に無断で決定する気配を見せたため、院はへそを曲げて義満の奏聞に取り合わず、結局、良基と義満は十月に正式決定を強行してしまう。明けて三年(一三八三)の正月二十九日、先帝・後光厳院の聖忌仏事が催されたが、院への強硬姿勢を示す義満の意志をはばかって、公卿・殿上人が一人も参加しないという事態が出来した。問題の事件は、その翌日に起こったものであり、明らかに義満に対する鬱憤が爆発したと解釈することができる。

  『後愚昧記』の筆者は、被害者である三条厳子の父・公忠であるが、彼はこの二年前、家領の困窮を朝廷ではなく、義満に訴えるという「前科」を持っていた。この時、義満は四条坊門新町の土地を安堵するように後円融(当時は天皇)に奏聞したが、後円融はここでもへそを曲げ、娘の厳子(後小松天皇の生母でもある)に対して「出入り差し止め」の処分を下した。結局、公忠がこの土地を手放して事態は決着し、厳子との間には無事に次の子供も生まれるのであるが、「讒言」する人があった云々という記述から、どうやら院が「厳子が按察局と同様に義満と密通し、かつ子供も義満の子供ではないか」と疑っていたらしいことが推測される。日野業子を初めとして、側室に加賀局・新中納言局・一条局・三位局など、宮中・仙洞の女官を侍らせた義満のことであるから、院の疑念も故なきことではなく、義満の側にも言い訳できない弱みはあった。義満は二月の末になって「按察局との密通の事実はない」という内容の起請文(!)を院に奉り、和睦へと事態は進んでいく。これらをすべて取り仕切ったのも実は、院の生母にして義満の叔母、崇賢門院広橋仲子であった。

  三月三日、「籠城」していた梅町殿から小川殿へ還御する院の牛車に義満が同乗(!)し、内外に公武の和睦が印象づけられたが、院にとってこの事件は最後の抵抗となった。今谷明氏が院を「最後の治天」と称する所以である。すでに院庁の構成員は、確認される限り、すべてが義満に臣下の礼をとっており、事件は治天の権力の崩壊を決定的にした。

  三ヵ月後の六月、義満は左大臣のまま、准三后宣下を受ける。

 

 

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(2010/07/11掲載)