【ある日の室町幕府】      作:kari

 

   この作品は、某研究者(ハンドル・ネームkari)氏に『日本中世史を楽しむ♪』掲示板に2010年6月26日投稿戴いた作品を作者の許可を戴いて転載するモノである。

 

   作品本体と解説の落差も、お楽しみ戴きたく候。

 

   なお、作中の細川持之は、当時の室町幕府管領で室町6第将軍足利義教暗殺の現場から這って逃げ出したコトで知られる。

 

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   【ある日の室町幕府】      作:kari

 

  足利義教「せっかく赤松んとこに来てやったんだからさー、楽しませてもらわねーとな。しっかし赤松は何で今ごろ、俺のこと呼ぶかね。・・・ま、いっか。それにしても、最近つまんねー呑み会ばっか多くてさ。どっかの国の『将軍様』は『喜び組』とか作って、ウハウハやってるみてーだけど、ウチもそう行かねーのかねー。あー、ヤダヤダ、ウチは強面の奴ばっかで。たまには『酒池肉林』とかやってみてーんだけどね」

  近習「殿、用意ができたそうです」

  義教「あっそ」

  (ガラリと背後の障子戸が開く)

  義教「あ? 何だオメーら、その格好? カチコミ?」

  赤松教康「おやっさん、わりーですけど、盃は返させてもらいやす」

  義教「ん? ご返盃って、俺まだ、酒とか呑んでねーんだけど」

  教康「そーゆー意味じゃなくってよ! 親分子分の縁、切るっつってんだよ!」

  義教「は? 何、それ? そーゆープレイなの? ぎゃはは! チョー受けるんですケド」

  教康「相変わらず、調子ぶっこいてやがんな!」

  義教「あ! 痛ッ! 親ァ斬りやがったな、テメー!」

  教康「最初っから、そのつもりなんだよ、バーカ!」

 

 

  細川持之「一応、禁裏に綸旨を出してくれるようお願いはしたけどね」

  細川持常「ちょっと対応、遅くね?」

  山名持豊「いや、お前はそう言うけどさ、実際に播磨に行くの、俺とお前だぜ。もうちょっと遅らしてくれた方がいいぐらいの話で」

  持之「何だよ、そこで尻ごみすっかよ」

  持豊「あ? オメー今、何つった? 赤松に襲われて、座りションベン洩らしてたのは、どこのどいつだ! 言ってみろや、ゴルァ!」

  持常「まあまあ」

  持豊「『まあまあ』だ? テメーら、身内どうしでヨロシクやりやがってよ!」

  持之「ヨロシクやってねーし!」

  持常「そうだよ、そこで仲間割れしてもしょうがないだろ」

  持豊「ケッ!・・・ま、いいや。話、戻すか」

  持之「お願いしますよ、ホント。・・・で、これからの話なんだけどさ。播磨には、持常と持豊さんで行ってもらって・・・」

  持豊「地元の連中、言うこと聞くかね」

  持常「俺もそこ、気になる」

  持之「おやっさん、人望なかったからねえ。やっぱ、むこうで人集めんのは無理じゃね?」

  持豊「したら、京都からヘータイ連れてくしかねーか。面倒くせーな」

  持常「出費もバカになんねーよ。経費で落ちんの?」

  持之「んー、一応、段銭は賦課できるようになってる」

  持豊「誰の権限で?」

  持之「や、ま、それは禁裏の命令っつーことで」

  持豊「そこでまた禁裏かよ。ちょっと媚びすぎなんじゃね?」

  持之「そうは言ってもさー、今じゃ、俺の言うことなんて誰も聞かねーし」

  持常「公家の連中にはさー、カマしときゃいいのよ。せっかく、三代目が路線作っといてくれたのにさー、何で今さらあいつらに頭下げなきゃなんねーわけ」

  持之「そーなんだけどねー。何せ、ことがことだから」

  持豊「そもそも誰かさんが、あの場で座りションベンさえしてなきゃ・・・」

  持之「だから、それを言うなって!・・・んー、モメるなー。えっと、じゃ、こういうのは、どう?」

  持豊・持常「あ?」

  持之「とりあえず、播磨には行く・・・と。で、赤松の城は包囲する・・・と」

  持豊・持常「ふんふん」

  持之「で、そっから難航するようだったら、帰京する・・・と。で、禁裏には『赤松の首、取って来ました』とか嘘こいて報告・・・って感じで、イイんじゃ・・・」

  持豊・持常「イイわけねーだろ!! シノギ、ナメてんのか!!」

 

 【解説】

  応永三十二年(一四二五)、五代将軍・足利義量が急逝し、父親の義持(四代)も正長元年(一四二八)危篤に陥った。義持が後継者の指名を拒否したため、管領・畠山満家の発案により、石清水八幡宮でくじ引きを行い、義持の弟である梶井宮義承・大覚寺義昭・虎山永隆・天台座主義円の中から将軍を決めることになった。

  当たりくじを引いたのは、第百五十三代の天台座主、「天台開闢以来の逸材」とよばれた義円である。すでに義持期における有力守護大名の横暴を知っていた義円は、将軍に就任するにあたり、彼らから「将軍抜きに勝手なことをしない」との起請文をとりつけた。六代・義教による執政の開始である。

  義教は、義満を模範として精力的に政治にとりくんだ。皇位継承問題への介入、訴訟制度である御前沙汰の創設、勘合貿易の復活、奉公衆の整備、九州探題の直轄化などの政策が注目される。この他、寺社勢力の取り込みも画策しており、結果として弾圧を行なったものの、比叡山勢力への注目は画期的であった。

  永享十一年(一四三九)、義教は関東管領・上杉憲実と関東公方・足利持氏の対立に乗じて、持氏を討伐した(永享の乱)。有力守護大名に対しても、家督の継承に干渉する政策をとり、意に反した一色義貫と土岐持頼は暗殺されている。

 粛清の徹底ぶりは、「万人恐怖」の政治ともよばれる。永享二年、東坊城益長が儀式の最中に笑ったとのかどで、所領没収の上、蟄居。 永享四年、一条兼良邸で闘鶏が行われたが、多数の人々が見物に訪れたため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中の鶏を洛外へ追放。側室である日野重子の兄・日野義資に対する私怨から、義資の所領を没収し、謹慎させる。のちに義資が何者かに暗殺された際、「義教の仕業である」との噂を流した高倉永藤が硫黄島へ流刑となる。さらに「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したという。

  永享九年頃から、播磨の有力大名である赤松満祐が、将軍に討たれるという噂が流れていた。嘉吉元年(一四四一)六月二十四日、満祐は「鴨の子が多数出来」したことを名目に義教を自宅に招いた。義教は少数の側近を伴って赤松邸に出かけたが、祝宴の最中に暗殺された。主を失った幕府は混乱し、討手を差し向けることもなく、満祐・ 教康父子は播磨に帰国する。同年七月十一日、ようやく討伐軍が編成され、細川持常・山名持豊(宗全)らに追討されて赤松氏は滅亡した(嘉吉の乱)。

  義教の生存中、将軍による中央集権が久しぶりに確立・安定していたことは事実である。また、義教の設立した奉公衆制度は将軍権力を支え、応仁の乱を経て明応の政変まで維持されることになる。生前の言行により不評を受けている義教であるが、彼が残したものは「負の遺産」ばかりではなかったのである。

 

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(2010/06/27掲載)