「ムカつく北条氏をブッつぶすから、みんな、集まれ!」

 

 元弘三年二月二十一日付「護良親王令旨」(太山寺文書)

 

 [本文]

 (本紙)

 ア:伊豆国在庁北条遠江前司時

 イ:政之子孫東夷等、承久以来、採

 ウ:四海於掌、奉蔑如 朝家之処、

 エ:頃年之間、殊高時相模入道之一

 オ:族、匪啻以武略芸業軽 朝威、剰

 カ:奉左遷

 キ:当今皇帝於隠州、悩 宸襟、

 ク:乱国之条、下剋上之至、甚奇怪之

 ケ:間、且為加成敗、且為奉成

 (裏紙)

 コ:還幸、所被召集西海道十五

 サ:箇国内群勢也、各奉帰

 シ:帝徳、早相催一門之輩、率

 ス:軍勢、不廻時日、可令馳参戦

 セ:場之由、依

 ソ:大塔宮二品親王令旨之状如件、

 タ: 元弘三年二月廿一日 左少将定恒奉

 チ:大山寺衆徒中

 (礼紙)

 ツ:追仰、

 テ:今月廿五日寅一點、

 ト:率軍勢、可令馳参

 ナ:当国赤松城、殊

 ニ:依時高名、於勧賞

 ヌ:者、宜依好之由、重被

 ネ:仰下候也、

 

 [書き下し]

 伊豆国在庁北条遠江前司時政の子孫東夷等、承久以来、

 四海を掌に採り、朝家を蔑如したてまつるのところ、頃

 年の間、殊に高時相模入道の一族、ただ武略芸業をもっ

 て朝威を軽んずるのみならず、あまつさえ当今皇帝を隠

 州に左遷したてまつり、宸襟を悩まし、国を乱すの条、

 下剋上の至り、はなはだ奇怪の間、かつうは成敗を加え

 んがため、かつうは還幸を成したてまつらんがため、西

 海道十五箇国の内の群勢を召し集めらるるところなり。

 おのおの帝徳に帰したてまつり、早く一門の輩をあい催

 し、軍勢を率い、時日を廻らさず、戦場に馳せ参ぜしむ

 べきのよし、大塔宮二品親王の令旨によるの状、件のごとし。

  元弘三年二月廿一日 左少将定恒奉る

 大山寺衆徒中

 (礼紙)

 追って仰す。

 今月廿五日寅の一點、軍勢を率い、当国赤松城に馳せ参

 ぜしむべし。殊に時の高名により、勧賞においては、よ

 ろしく好によるべきのよし、重ねて仰せ下され候なり。

 

 [読み]

 いずのくにざいちょうほうじょうとおとうみのぜんじと

 きまさのしそんとういら、じょうきゅういらい、しかい

 をたなごころにとり、ちょうけをべつじょしたてまつる

 のところ、けいねんのあいだ、ことにたかときさがみに

 ゅうどうのいちぞく、ただぶりゃくげいぎょうをもって

 ちょういをかろんずるのみならず、あまつさえとうぎん

 こうていをいんしゅうにさせんしたてまつり、しんきん

 をなやまし、くにをみだすのじょう、げこくじょうのい

 たり、はなはだきかいのあいだ、かつうはせいばいをく

 わえんがため、かつうはかんこうをなしたてまつらんが

 ため、さいかいどうじゅうごかこくのうちのぐんぜいを

 めしあつめらるるところなり。おのおのていとくにきし

 たてまつり、はやくいちもんのともがらをあいもよおし、

 ぐんぜいをひきい、じじつをめぐらさず、せんじょうに

 はせさんぜしむべきのよし、おおとうのみやにほんしん

 のうのりょうじによるのじょう、くだんのごとし。

  げんこうさんねんにがつにじゅういちにち さしょうしょうさだつねうけたまわる

 たいざんじしゅとちゅう

 (礼紙)

 おっておおす。

 こんげつにじゅうごにちとらのいってん、ぐんぜいをひ

 きい、とうこくあかまつじょうにはせさんぜしむべし。

 ことにときのこうみょうにより、けんじょうにおいては、

 よろしくこのみによるべきのよし、かさねておおせくだ

 されそうろうなり。

 

 [現代語訳]

 もともと伊豆国の在庁官人に過ぎなかった北条遠江前司

 時政の子孫である東国の野蛮人どもが、承久年間以来、

 天下を支配し、天皇家をお見下し申し上げていたが、近

 年は、特に相模入道北条高時の一族が、ただ武力にモノ

 を言わせて朝廷の威光を軽んずるだけではなく、さらに

 その上、今上天皇を隠岐嶋にお流し申し上げ、天皇の御

 心を悩まし、国を乱していることは、下剋上の至りであ

 り、まったくもって奇怪な話であるから、一つには北条

 氏を罰するため、もう一つには天皇を都にお帰し申し上

 げるために、西日本十五ヶ国の内に住む群勢を召し集め

 るところである。皆みな、天皇の御威徳にお服し申し上

 げ、早く一族の人々を連れ、軍勢を率いて、速やかに戦

 場に駆け付けるように。以上のことを大塔宮二品親王様

 の令旨によって、命ずるものである。

  元弘三年二月廿一日 左少将定恒奉る

 大山寺衆徒中

 (礼紙)

 続けて命令する。

 今月二十五日の午前四時頃、軍勢を率いて、当国赤松城

 に駆け付けよ。特にその時あげた功績については、恩賞

 は、お前達の希望通りとする。以上のことを親王様がさ

 らに御命令になった。

 

 [意訳]

 ムカつく北条氏をブッつぶすから、みんな、集まれ!

 と護良親王様が言うておられます。

 

 [コメント]

  護良親王は、流れ星のような「悲劇の皇子さま」である。

  後醍醐天皇の皇子に生まれ、幼少で比叡山延暦寺に入り、20歳で日本仏教界の頂点天台座主となりながら、元弘元年(1331)の5月に発覚した父後醍醐による2度目の鎌倉幕府打倒計画「元弘の変」で父が隠岐に流されるや、還俗。山岳ゲリラのリーダーとして、鎌倉幕府の大軍を向こうに回して、戦い続ける(元弘の乱)。

  まさに「戦う皇子さま」である。

  本史料は、ゲリラ戦のさなか、護良が全国にバラまいた数多い「倒幕の令旨」の1通である。非常に格調高い文章が、印象深い。

  後期の鎌倉幕府は、親王将軍を戴いていたから、護良は、足利尊氏なんかより、はるかに征夷大将軍として幕府を開く可能性を持っていたのである。

  しかも、彼は自ら武器を手にして戦いの先頭に立ったのだから、鎌倉歴代の親王将軍みたいなお飾りではなく、真の武家の棟梁である親王将軍となり得たはずなのだ。

  しかし、と言うか、それ故にと言うべきか、護良が命を懸けて建設に尽力したとも言い得る父後醍醐の建武政権下では、兵部卿・征夷大将軍に任官したものの、父後醍醐に疎まれ、足利尊氏とも対立して、次第に追い詰められて行く。

  鈴木由美氏は、上記の私の「流れ星のような」という護良評に、

 「『隕石』という表現の方が個人的にはイメージに合います。なんといいますか、地表に落ちる時にはクレーターをつくったり、周りをも巻き込んでいく感じが(ひどい言い方)」

  と述べているが、追い詰められ粗暴な行動が目立って行く建武政権下の護良の姿には、確かに「メーワクな隕石」というイメージがある。

  ついに護良は父によって、ライバル尊氏に売られ、尊氏派の牙城として尊氏の弟直義の支配下にあった鎌倉に送られ、幽閉。

  そして、中先代の乱のドサクサに暗殺された。時に28歳。

  その悲劇的な生涯の故か、各地に、彼の生存・逃亡伝説が残されている。

 

 [様式・文字などの解説]

 ※もっともポピュラーな史料集である鎌倉遺文(以下、「鎌遺」)の翻刻(31996。第41巻192・193頁)との相違を含め、解説する。

 ※闕字 けつじ:下の文字を敬って、上一文字分空けること。

 ※平出 へいしゅつ:ある文字を敬って、その文字を行の頭に置くため改行すること。

 

 (1)本紙 ほんし:1枚目の紙。書状(お手紙)本文を書く紙。

 (2)裏紙 うらがみ:2枚目の紙。本来、相手を敬って礼を篤くするために本紙に付すもので、白紙であることも多いが、書状が長くて本紙に書ききれない場合は、裏紙に続きを記す。

  書状をしたためる時は、紙2枚(本紙・裏紙)をセットで取り、本紙に書状を記す。続きを裏紙に書く場合は、2枚を一緒に裏返して、続きを書く。したがって、原則として、本紙は紙の表側(ツルツルした側)に文章が書かれており、裏紙は紙の裏側(毛羽立って、モサモサした側)に文章が書かれることになる。

 (3)礼紙 らいし:相手への礼として、本紙と裏紙を一緒に巻いて、つぶした後で、それをさらに上から巻く紙。

  今日の追伸のような書状の続きを礼紙に書いたものを「礼紙書」(らいしがき)と称す。

  本紙と裏紙は、一緒に巻いてつぶすので、いったんバラした後でも、一緒に折ることができる。ところが、礼紙は本紙・裏紙の上から巻いてあるので、折り幅が違うため、本紙や裏紙とセットで折ることができないのである。

  本紙・裏紙・礼紙を、紙をタテに使って包むのが封紙(ふうし)で、今の封筒にあたる。

 (4)ウ行に「如 朝」と闕字があるが、鎌遺は闕字になってない。

 (5)オ行に「軽 朝」と闕字があるが、鎌遺は闕字になってない。

 (6)キ行の「当今」は平出あるが、鎌遺は平出になってない。

 (7)キ行「悩 宸」は闕字であり、これは鎌遺も闕字にしてる。

 (8)ケ行で本紙が終わり、10行目から裏紙。

 (9)コ行の「還幸」は平出あるが、鎌遺は平出になってない。

 (10)サ行からシ行に掛けての「帰帝徳」は「帝徳」の平出であるが、鎌遺は「帰 帝徳」と闕字にしてる。

 (11)シ行「一門之輩」の「輩」を、鎌遺は「軍」にしているが、これは、意味からも、文字の形からも、「輩」(ともがら)が良いと思われる。

 (12)ソ行「大塔」は平出あるが、鎌遺は平出になってない。

 (13)チ行で裏紙が終わり、ツ行から礼紙。これは鎌遺も、そのように書いておる。

 (14)テ行目の「寅」は、タ行の「奉」と同じく、他の字より小さいのであるが、鎌遺は、ちっちゃくしてない。もっと言うと、「寅」は、行から右にちょっとズレているのであるが、ま、こりゃ、活字に反映するのは難しいやね。

 (15)ト行「可令馳参」の「可令」が、鎌遺は、なぜか落ちとる。

 

 [内容解説]

 (1)護良親王 もりよししんのう:1308〜1335。28歳。後醍醐天皇の皇子。母は北畠師親の女親子。11歳で比叡山延暦寺梶井門跡(ひえいざんえんりゃくじかじいもんぜき)の大塔(おおとう)に入り、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と称して、天台座主(てんだいざす = 延暦寺の住職)を二度務めた。だが、元弘の乱に際し、還俗(げんぞく 坊さんやめて、一般人にもどること)。この令旨発給時は、鎌倉幕府の軍勢を相手に近畿地方で山岳ゲリラ戦を展開中。

 (2)令旨 りょうじ:皇太子・三后(さんこう 皇后 こうごう・皇太后 こうたいごう・太皇太后 たいこうたいごう)・親王・内親王(ないしんのう)・女院(にょいん)などの皇族の意を伝える奉書(ほうしょ)形式の文書。奉書は、主人の意を主人に代わって侍臣が伝える形式の文書。

 (3)在庁 ざいちょう:在庁官人(ざいちょうかんじん)。国衙の実務をおこなった役人。平安時代以来、地方豪族(≒ 地元有力武士)が世襲。

  この令旨で、護良は北条時政を「伊豆国在庁」と記しており、これを信ずれば、時政は伊豆の在庁官人であったことになる。だが、これは護良が時政及びその子孫北条氏をさげすんで「伊豆の在庁官人に過ぎなかった時政」といった意味を込めて呼んでいるのであり、実際には時政が在庁官人であったかどうかは不明。むしろ、護良はバカにしたつもりで、在庁官人ですらなかった時政を、かえって持ち上げてしまった可能性がある。

 (4)遠江前司 とおとうみのぜんじ:遠江守(とおとうみのかみ)に任官して止めた人。

 (5)北条時政 ほうじょうときまさ:1138〜1215。78歳。執権北条氏の始祖。鎌倉幕府初代執権。

 (6)東夷 とうい:東に住む野蛮人。本来は、漢民族の中華思想(華夷思想 かいしそう)にもとずく概念。文化の中心・世界の中心である中華の周囲にいる東西南北それぞれの野蛮人を東夷・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)と称する。日本では、古代以来、西国の人々が東国に住み異民族と認識されていた蝦夷(えみし)を東夷(とうい・あずまえびす)と呼んでいたが、平安時代以降、西国の人々による東国住人・東国武士の蔑称ともなった。ここでは、北条氏を侮蔑して、このように表現している。

 (7)承久以来 じょうきゅういらい:「承久年間(1219〜1222)以来」でも「承久の乱以来」でも、どちらと訳しても良いであろう。興味深いのは、王朝側の人である護良親王が「承久の乱以降、北条氏が日本の支配者となった」という認識を述べていることである。

 (8)四海を掌に採り しかいをたなごころにとり:四海は、天下・世界・国内の意。よって、「四海を掌に採る」は「天下を支配する」というような意味。

 (9)朝家 ちょうけ:「ちょうか」とも。天皇家。

 (10)蔑如 べつじょ:さげすむこと。見下すこと。

 (11)頃年 けいねん:近頃。ここ数年。

 (12)殊に ことに:特に。さらにそのうえ。そればかりか。

 (13)高時相模入道 たかときさがみにゅうどう:北条高時(1303〜1333。31歳)。高時は相模守(さがみのかみ)任官後に出家したので、「相模入道」と称された。鎌倉幕府第14第執権。鎌倉幕府最後の得宗(執権北条氏の家督・惣領)。おバカさんで、有名。

 (14)匪啻〜:ただ〜のみならず。「ただ〜だけではなく」の意。匪 = 「あらず」。啻 = 「ただ」。「不啻」に同じ。

 (15)武略芸業 ぶりゃくげいぎょう:武略= 「武芸。武術」。 芸業 = 「学術・技芸のわざ」。ここでは、単に「武力」といった意味で解釈して良いであろう。

 (16)朝威 ちょうい:朝廷の威光。

 (17)剰 あまつさえ:そればかりか。さらに、そのうえ。

 (18)当今皇帝 とうぎんこうてい:現役の皇帝(天皇)。通常、「当今」だけで、今上(きんじょう)と同じく「当代の天皇」を意味する。

  ここでは後醍醐天皇を指す。後醍醐は、元弘の変によって退位させられ、既に光厳天皇が「当今」なのであるが、護良は光厳を認めず、後醍醐を当代としているわけである。

 (19)隠州 いんしゅう:隠岐国(おきのくに) = 隠岐島(おきのしま)。後醍醐天皇は元弘の変に際し、承久の乱の後鳥羽院の先例により、当地に流された。現在、演歌歌手西川峰子氏が在住(のはず)。

 (20)左遷 させん:高い官職から低い官職に落とすこと。ここでは、不当な理由で貴人を辺地に移すこと。

 (21)宸襟 しんきん:天子の御心。

 (22)下剋上 げこくじょう:下の者が上の者をしのぐこと。

 (23)甚だ はなはだ:おおいに。大変。

 (24)且A、且B かつA、かつB:一つにはA、もう一つにはB。

 (25)成敗 せいばい:こらしめる。処罰する。

 (26)還幸 かんこう:天皇が行幸(みゆき)先からお帰りになること。

 (27)西海道十五箇国 さいかいどうじゅうごかこく:西海道は本来、鎮西(ちんぜい 九州)9ヶ国のこと。ここでは、西日本諸国を指すか。具体的には、不明。

 (28)帝徳に帰す ていとくにきす:天子の威徳に服する。

 (29)一門の輩 いちもんのともがら:一族の人々。

 (30)時日を廻らさず じじつをめぐらさず:速やかに。そっこーで。

 (31)大塔宮二品親王 おおとうのみやにほんしんのう:護良親王のこと。護良は、(1)に上記の如く、11歳で比叡山延暦寺の梶井門跡の中の大塔に入室したため、大塔宮と呼ばれた。二品は、護良の叙された位階。親王の位階を品位(ほんい)といい、一品(いっぽん)・二品・三品(さんぽん)・四品(しほん)の四等級に分かれる。

 (32)左少将定恒 さしょうしょうさだつね:吉田定恒。護良親王の近臣の公家。

 (33)奉る うけたまわる:文書の差出者(さしだししゃ)が「主人の意をうけたまわりました」という意味で名前の下に記す言葉で、「下附」(したつけ)という。

 (34)大山寺 たいざんじ:現在は、太山寺。兵庫県神戸市にある天台宗の寺院。

 (35)衆徒 しゅと:寺僧衆のこと。武蔵坊弁慶のような、いわゆる僧兵(そうへい)も、こう呼ばれる。

 (36)追って仰す おっておおす:続けて命令する。

 (37)寅の一點(点) とらのいってん:午前四時頃。

 (38)当国 とうこく:ここでは、播磨国(はりまのくに)を指す。

 (39)赤松城 あかまつじょう:護良親王の従者赤松氏の居城。

 (40)時の高名により ときのこうみょうにより:その時の功績によって。

 (41)勧賞 けんじょう:功績を賞し恩賞を与えること。

 (42)重ねて かさねて:さらに続けて。

 (43)仰せ下す おおせくだす:命令する。


(2009/01/02掲載)