下総の子犬の話

 

『古今著聞集』「闘争」

 

 [原文]

  鎌倉右府将軍家に、正月朔日大名共参りたりけるに、三浦介義村、もとよりさぶらひて、大侍の座上に候けり、其後千葉介胤綱参りたりける、いまだ若者にて侍りけるに、多くの人をわけ過て、座上せめたる義村が猶上に居てけり、義村しかるべくも思はで、いきどほりたる気色にて、「下総犬は、ふしどを知らぬぞよ」と云たりけるに、胤綱少しも気色かはらで、取りあへず、「三浦犬は、友をくらふなり」と云たりけり。輪田左衛門が合戦の時の事を思ひていへるなり、ゆゝしくとりあへずはいへりける。

 

 [コメント]

  ある年の正月元旦、三代将軍源実朝の鎌倉御所に御家人達が群参していた。その中で、執権北条義時に次ぐ幕府No.2の大幹部である相模(神奈川県)の豪族三浦介義村(五十二歳くらい[1])は最上席、言ってみればSS席にふんぞりかえっていた。するとそこに「おらおらどけどけ」とばかりに並み居る御家人達をかき分けてズカズカやって来た者がいた。まだ年若い下総(千葉県)の豪族千葉介胤綱である。胤綱は義村の更に上座にどっかと座ってしまった。当然、義村はカンカンに怒って言った。「下総の犬野郎は寝床を知らねえようだな!」。胤綱は間髪を入れずに言い返した。「三浦の犬野郎はダチを食うぞ!」。

  胤綱の一言で、威張りくさっていた義村はへこんでしまったらしい。この話は鎌倉中期成立の説話集『古今著聞集』に載っているのだが、オチには説明が必要である。胤綱の言葉は、建保元(一二一三)年五月に起こった鎌倉幕府の内戦「和田合戦」における義村の行動をついているのである。この合戦は、当時の政所別当北条義時と侍所別当和田義盛の抗争から勃発した、幕府を二分する内戦であった。この時、義村は従兄である義盛と共に戦うことを誓い、起請文まで書いていたにもかかわらず、土壇場で寝返って義盛の挙兵計画を義時に密告し、ために合戦は義盛方の敗北という結果となった。義時はこの勝利によって、それまで就いていた政所別当に、義盛の就いていた侍所別当を併せて、執権、つまり御家人No.1の地位に就いた。義時の勝利は、全く義村のおかげであり、以来、義村は幕府No.2の最高幹部となった。だが、義村の行動は、何と理由をつけようとも、裏切りであり、義盛や、義村と同世代であった義盛の子息達[2]をはじめとする和田一門は族滅にしたのである。義村の地位は、まさに「友をくらふ」(『古今著聞集』原文)ことによって得たものであった。

  ところで、実はこの話は何年に起こったのかを特定することができる。まず、和田合戦は既に書いたように、建保元(一二一三)年五月であり、将軍実朝は承久元(一二一九)年正月二十七日に二十八歳で暗殺された。よって、この話は建保二年から承久元年までの六年間の出来事である。そして胤綱の父千葉成胤は建保六(一二一八)年四月十日に病没している(『吾妻鏡』同日条)。したがって胤綱が、千葉氏惣領の世襲する千葉介(下総介の通称)を継いで、幕府の公式行事に出席するようになるのは、建保六年四月以後ということになる。実際、『吾妻鏡』承久元年七月十九日条の九条三寅(後の四代将軍九条頼経)鎌倉入り行列の「狩装束人々」に見える「千葉介」は、成胤はもう死んじゃっているのであるから、胤綱ということになり、これが胤綱の『吾妻鏡』初登場となるが、この記事によって同年には胤綱が千葉氏の惣領として御家人に列していたことが確認できる。よって義村と胤綱のケンカは、承久元年正月元旦であったことになるのである。だが、そうすると、ひとつぶったまげるようなことがわかる。

  なんと胤綱はこの時数え年十二歳、満年齢だと十一歳。五年生である。これでは「いまだ若者」(『古今著聞集』原文)どころではない。チビッコである。声変わりもしておるまい。すんごい生意気なガキであるが、かっこいーとも言えよう。

  胤綱が数え年十二歳であったとわかると、このエピソードからは、更にいろんなことがわかる。まず子供というのは育てようで、こうも立派(?!)に育つということ。桓武平氏村岡良文流の名門であり房総半島最大の豪族である千葉氏の御曹子として、胤綱は大切に、そして厳しく育てられたのであろう。だから、胤綱はえらく生意気だが、不正を許さない誇り高い少年に育ったのである。

  「三浦の犬は、友をくらふなり」(『古今著聞集』原文)という胤綱の言葉には、「クソじじい、でかい面をするな!てめえは裏切り者だ!恥ずかしくねえのか!」という鋭い批判がこもっているし、「俺は裏切り者の下座になんか座んねえぞ!」という胤綱の誇り高い姿勢を良く示している。そして義村の裏切りは周知の事実であったのに、御家人達が義村の権勢を恐れて誰もそれを口に出そうとはしなかった中で、これを真っ正面から言ってのけたのが、十二歳の男の子であったことは、「王様は裸だ!」といったのが小さな子供だけであったのと同じく、いつの時代も大人というのは保身を考えて情けなくなってしまうのね、ということである。

  胤綱は、二年後に勃発した承久の乱では、十四歳で鎌倉方東海道軍五大将軍の一人となるなど、鎌倉幕府の幹部として活動を続けたが、安貞二(一二二八)年五月二十八日二十一歳で世を去った(『吾妻鏡』同日条)。

 

 註

 [1]三浦義村は年齢不詳であるが、以下のような推定はできる。まず、活動時期から義村は北条義時(1163〜1224。六十二歳)とほぼ同世代と考えられる。仮に寿永元(一一八二)年八月十一日の『吾妻鏡』初登場時点で義時の五コ下の十五歳とすると、和田合戦時点で四十六歳、延応元(一二三九)年十二月五日の卒去(『吾妻鏡』同日条)時点で七十二歳となる。義村の嫡子泰村は承久三(一二二一)年十八歳(『承久記』)なので、義村三十六歳の子となるが、泰村には兄がいるので、良く合うと思う。又、義村の父義澄は正治二(一二〇〇)年正月二十三日に七十四歳で没している(『三浦系図』)ので、義村は義澄四十一歳の子となるが、義村は「平六」、つまり六男坊なので、これも良く合うと言えよう。だいたいこんなもんであろう。

 [2]『吾妻鏡』・『和田系図』によれば、和田義盛は和田合戦での滅亡時点で六十七歳。[1]で見た義村の推定年齢と比べると、従兄弟と言っても二人は二十一歳、親子程も年の差があったことになる。一方、義盛と共に滅亡した子息達は、嫡男常盛四十二歳、次男義氏四十歳、三男義秀三十八歳、四男義直三十七歳、五男義重三十四歳、六男義信二十八歳、七男秀盛十五歳。叔父・甥とは言え、義村と常盛は四歳違いであり、同世代であったことになる。義村と常盛兄弟とは幼なじみの友達であったことであろう。義村はまさに「友をくら」ったのである。


(2008/10/02掲載)