道元と北条時頼

 

  宝治元(一二四七)年八月の道元の鎌倉行きについては、名利権勢への接近を嫌悪した道元の思想との関係から、いろいろな説があるそうです。同年六月の宝治合戦が関係することは言うまでもないですが、この合戦の以前、執権北条時頼が戦乱回避のため、ほとんど捨て身で努力していたことが「吾妻鏡」に記されています(謀略とする説がありますが、私はこれを採りません)。

  にもかかわらず、合戦は勃発し、戦死者五〇〇人以上という結末をむかえます。つまり、道元が訪れた宝治元年八月の鎌倉は、武家の都である以前に、戦災都市であったのであります。弘法救生を自己の使命としていた道元が鎌倉に駆けつけたことは、彼の思想と何ら矛盾しないと思います。

  そして、当時の鎌倉にあって、もっとも救済を求めていたのは、努力もむなしく自身の命という形で三浦氏を滅ぼしてしまった時頼であったのではないでしょうか。道元の鎌倉行きは、「関東執権従五位上行左近将監平朝臣」という権力者に接近するためではなく、「北条五郎」という二十一歳の青年を救うためであったと思います。

  七ヶ月の滞在の後、「名藍を建てますから、帰らないで下さい」と言う時頼に対し、「越州の小院にも檀那あり」の言葉を残し、道元は永平寺へと去ります。この時の道元との出会いが、時頼の禅宗への傾倒の端緒であったのではないでしょうか。


(2008/11/11掲載)